Φ 時の暇つぶし Φ <3>



 大きな満月が浮かぶ空の下を、小さな人影が、黒森を目指してひたすら走っていた。
「お母さん‥お母さん‥!!」
 お母さんが死んでしまう。
黒森へ向かって必死に走るリルの目尻から、透明な涙が、しゃん、と散った。
暗号化してあったが、あの本には確かに、泉が黒森の中にあるということを証明する内容が書かれていた。そもそも、あの学校で出されたレポートの宿題。アレを調べる過程で、気付けたかもしれなかった。母の言ったとおり、早めにやってしまっておけば、もっと早く気付けたかもしれないのに。
「急がないと‥私の‥私の所為でお母さんが‥‥!」
 葉で足や顔を切っても、木の根に足をとられて転んでも、絶対に止まろうとはせずに。枝を、蔦をかき分けながら、普段だったら恐ろしくて身動きもとれないような深い闇の中でも、決して弱音を吐くことなく、泉を探して走った。
『‥私‥あの子に‥何もして、あげられな‥い‥』
 あの時母の言った言葉が頭の中に浮かんできて、リルは唇をかみ締めた。
違う。違う。お母さんに何もしてあげられてないのは、自分の方だ。
まだ、ちゃんとお礼も言っていない。調べてくれて、信じてくれてありがとう。そう言えていない。
だから絶対に、元気になったお母さんに、言わなければいけない。
呆れるほどいっぱいの、ありがとうを。

いつも笑顔で。元気で、強くて、明るくて。いつも、魔法の使えない自分を元気づけ、支えてくれた。
(私の為にお母さんは色々してくれたのに。ここで私が諦めたら、私、世界一の親不孝だ。みんなに好かれてるお母さんを、まだまだいっぱい楽しいことがあるはずのお母さんの人生を、私が奪っちゃいけない。)
「わ‥っ!」
 こぼれ落ち続ける涙で目の前がかすみ、木の枝に躓いて転んでしまった。黒森と言っても、面積はかなり広い。子供が当てもなく走り続けて都合良く見つかるはずがないのだ。既に何度も転び、走り続けた所為で、体力は殆ど残っていない。しかし、もし、ここで走るのをやめてしまったら。そんなことが、リルの脳裏を過ぎった。
「いやだ‥‥いやだよ‥‥絶対に嫌だ!!」
 ぼろぼろに汚れた袖で顔をぬぐって更に顔が汚れたが、弱い心はぬぐうことができた。自分を励ましながら立ち上がった、そのときだった。

 ぽろん。ぽろん。

「‥‥音‥楽?」
 ―『子供が森の中をあても無く彷徨っていると、彼の耳に、不思議な楽器の音色が聞こえてきた』―
 それは、伝説の中の、不思議な音色。
「まさか‥」
 転んだときに軽く捻ってしまったらしい足を引きずるように、その音色の聞こえる方へ走った。ずきん、ずきんと切ってしまった頬が熱くなる。毒のある植物で切ってしまったのだろう。それでも、彼女は止まるわけにはいかなかった。 止まれば、何よりも大事なものが永遠に失われてしまうことが、分かっていたから。
ぽろん、ぽろんと優しく鳴るその音を追って走って、走って、走って。
――ふいに、ぶっつりと木の群が途絶えた。
ぽろん。ぽろん。
月光に照らされ、静謐と並ぶ白磁の大木達に囲まれたその空間。水を吸い続けることでしか生きてゆけない、涸らし木とも呼ばれるその大木達。その中心には、古びた大きな石がずっしりと、その存在を静かに、確かに主張していた。

 そして。

「‥驚いたな‥‥まだ伝説を信じている子供がいたのか‥‥」
 ぽろん‥‥と、不思議な形をした楽器を弾くのを止めた『彼』が、この神秘的な空間の大気を振るわせ、確かに彼女をその瞳に映して、大地のように穏やかな声を出した。
「――あなたは‥‥時渡り様‥‥‥ですか‥?」
 その人物は、深く帽子を被った、魔導師の様な格好。
小さな頃からずっと憧れ、ずっと、ずっと探してきた、彼女にとって夢そのものの、存在が。
「‥そうだ」
 今、確かに彼女の目の前に居た。
「―わ、私‥私‥」
 いざ本物を目の前にすると、うまく言葉が出てこなくなり、リルは両手ですっかり汚れてぼろぼろになった服の裾をぎゅっと握りしめた。
「私‥」
 ようやく言葉を絞り出す勇気を出したとき、語り部がそれを止めた。
「少しだけ待て、始まるから‥」
 何が、とは聞かなかった。既に、分かっていたから。
ああ、たった今から、私は、歴史の目撃者になる。
「200年に、たった一度の大満月の夜―銀月灯の、花が咲く‥‥‥」
 リルがそう呟いた直後。
涸らし木‥殆ど知られていないが、別名『銀月灯』の開花が始まった。木の枝々についた、無数の小さな蕾‥月光を浴びてきらきらと輝く銀色の蕾が、 一斉に綻び‥‥ゆっくりと、開いた。
「ああ‥‥」
 なんて。なんて、綺麗なんだろう。
それは、夜空に輝く群星のように美しく、限りなく神秘的に、この夜を彩っていた。どんな宝石の輝きも、この花々の放つ白銀の光には敵わないだろうと思われた。それと同時に、リルの耳に、こぽこぽという水の音が響いてきた。
「やっと‥‥」
 銀月灯の大木は、芽吹いてから枯れるまで、途切れることなく水を吸い上げ続け、ときには泉や湖を涸らしてしまう。ただし、
「やっと見つけたよ、お母さん‥‥伝説の、泉を」
 200年に一度の、開花の時を除いては。
ひとつ、辻褄の合わないことがあった。カーマルイスの水は、ウロコ石が青くなる水質ではないのだ。でも、その答えがやっと分かった。永遠のような年月を銀月灯の幹の中で眠ってきた泉。そして眠りから覚めた泉の水は澄みきって、ただ水という存在のみになる。
地下からわき上がる透明な水と幹からあふれ出す水が、みるみるうちに窪みを潤していった。
「言ったでしょ、ウロコ石は、青だったよって」
 リルは、青に染まっていく泉の中心にある巨大なウロコ石を見ながら呟いた。目の前の光景も、泉のようにでてくる涙によってにじんでくる。
どんなに探しても、泉が見つからない理由。それはとても簡単なこと。見つかる筈が無いのだ、200年に一度の、この日を除いては。今、この時にしか、泉は存在しないのだから。
 『―泉は月の光を反射させ、光っていた。美しい、神秘的な輝き―』
伝説に出て来た、すべてのことが、目の前にあった。
「‥さて、ここまで来たからには何か願いがあるんだろう」
 銀月灯の輝きを静かに見上げていた暁渡りが、振り返ってリルを見た。そう。自分は、お母さんを助ける為に。
「‥お願いします、助けて下さい!!今‥私のお母さんが、逃魔病って病気に掛かってて、血が繋がってる人の魔法じゃないと助けられなくて‥でも、血が繋がってるのは私だけで‥‥でも‥私‥!!」
 最期の言葉を自ら言うのは、胸に杭を打ち込まれるような心地がした。しかし、リルにとってはそんな痛みよりも、母親を永遠に失うかもしれないという痛みの方がよほど苦しかった。
「‥私‥魔法が使えないんです‥!!」
 目に涙を浮かべ、ようやく絞り出したその言葉を聞いた時渡りは、月光に照らし出されたリルの瞳と、髪の色を見て驚いた顔をした。
「‥緑か‥‥」
「‥え?」
 リルが不思議そうな顔をすると、彼は独り言のように言った。
「‥強大な魔力。自分では御しきれないそれを無意識に使わないようにしているだけだ、お前は」
 この人は、今、何を。
言われた言葉の意味を理解できず、呆然と突っ立っているリルに向かって、時渡りはこっちへ来い、と言うように手を動かした。リルが波紋をつくりながら泉の中へ入っていくと、時渡りは自分の手についていた銀の腕輪を外した。
「‥手を」
 言われるままに出した掌のその上に、腕輪が落とされた。意味が分からず、帽子の影に隠された彼の顔を見上げると、
「それをつければ、魔法が使えるようになる‥魔力を、完全に御しきれるようになるまで、肌身離さずつけていろ」
 と、穏やかな声で言った。
「私に‥魔法が‥?」
「‥その瞳と、髪の色。この世界では、まだ見たことがないだろう‥強い魔力を持つ者にしか現れない特徴だ」
 そう言えば、昔からこの変わった髪の色のことでリルが泣いていたり、ふて腐れていたりすると、両親がよくリルの髪をくしゃくしゃにして、
『髪や瞳の色が変わっている子は、特別なんだ。神様に愛されているんだよ。だから、その子はとても幸運で、幸せに育つんだ。それに何か、必ずひとつは特別な才能があるんだって』
神様からの贈り物だね、と微笑んで慰めてくれた。嘘でも嬉しかったけれど、本当だった。
私は。自分は、神様に愛されているのだろうか。
リルの胸に、じんわりと暖かいものが広がった。そして、リルの細い手首に、銀の腕輪がカチリとはまった。
「本当に‥これで魔法を使えるようになったんですか?」
 突然不思議な感覚に包まれるとか、そういうものが全くなかったことに戸惑ったリルは、不安げに彼を見上げた。
「今のお前は、ほんの少しの魔法しか使うことは出来ないから、家の景色を念じろ。そこへ魔法で飛ばす」
「あ、ありがとうございます‥!!本当に‥!!」
 リルは、腕輪のはまった手をもう片方の手で握りしめながら、震える声でお礼を言った。
「‥‥それと、これは餞別だ」
 少しだけ躊躇うように差し出された楽器を、リルは戸惑いつつも受け取った。そして、お礼を言いつつもう一度顔を上げた。
「あの‥聞いてもいいですか?‥なんで、貴方は‥‥時を渡ってきたんですか?」
「‥‥銀月灯には月の魔力が籠もる。お前の知らない時代から、その花をとりに来た。‥‥それと、遙か昔に出会った、恩人に会いに」
 これ程までに偉大な時渡りの『恩人』とは、誰なのだろうか。リルは不思議に思って聞き返した。
「恩人‥‥?一体、誰なんですか」
「‥早くしたほうがいい」
 時渡りは、失言した、と言うように顔を逸らすと、それ以上何も言おうとしなかった。
「じゃあ‥最期に、ひとつだけ」
 リルは、家の景色を頭に浮かべながら、立った今うまれた、新しい願いを口にした。
「‥また、会えますか?」
 深緑の帽子を被った魔導師は、顔を上げると、リルの目をまっすぐ見て、初めて笑顔を見せた。
「会いたいのなら、見つけてみせろ」
 その時、一瞬だけ。
時渡りの顔が月光に照らされ、彼の少し笑った口元や、ととのった顔立ち、そして、何よりも穏やかで英知をたたえた、緑色の瞳が見えた。
 自分と、同じ色だった。
「‥あなたは‥‥?」
 しかし、リルが言葉を発そうとした次の瞬間、周りの景色は変わり、目の前に見慣れた部屋が現れた。自分の家に、帰ってきたのだ。
「リル!?」
 フェンスター医師が驚いた声を出してぼろぼろな服装のリルを見たが、リルの目には母親の姿しか映らなかった。
「お母さん!!」
 楽器を壁に立てかけ、だだだ、と走って、寝台に縋り付く。
「お母さん!お母さん!!」
  寝台に眠る母は苦しそうで、短く息を吐き出していた。瞼は閉じられ、額には汗が滲んで、早く手を施さなければ危ない状態だと言うことが一目瞭然に分かった。胸がきりきりと痛んで、再びパニックを起こしそうになる心をどうにか静めたリルは、ぐったりとした母親の手を握りしめた。
(お願い‥‥私の中に魔力があるのなら今だけでも良い、私の言うことを聞いて、お母さんを治して。私、お母さんを助けたい‥! )
 自分の中に眠っているらしい魔力が母親に伝わることを必死に祈りながら、握った手に意識を集中する。しかし、なかなか変化は見られず、母親の脈が段々と短くなっていくのが分かる。逃魔病が、恐ろしい病の毒が、母親の体を蝕んでいるのだ。
 お願いだから、母を助けて。今使えないのなら、魔力なんて何の意味もない。何故、自分の魔力は応えてくれないのか。そう思ったとき、唐突に分かった。魔力は、祈るようなモノではないのだ。走るときに、足が独りでに動くことを期待しても、何も起こらない。命令しなくては、自分の神経に。魔術師の潜在的な部分を司るという、心に直接命令し、『自分は魔法が使える』と絶対的な自信をもって念じるのだ。
『魔力を使うときには、その存在を盲目的な程信じなければいけない。迷いを持った主人には、魔力は付いては来ない』
教科書で、低学年の教科書で、授業で散々習った。筆記しか取り柄がないのに、何故こんな時にすぐ出てこなかったのか。
リルは、目を瞑って一度深呼吸した。落ち着かなければ。乱れた心では魔力の行使が難しいのだ。
自分の中に眠る魔力の、最低限の力だけで良い。母を蝕んでいる病の毒を消す為に。

 血管を流れる血と一緒に、心から押し出された魔力が、自分の手の先へと集まってくる映像をイメージする。心臓から肩へ登ってきて、二の腕から手首へ。そして、手首から手の甲、指先へ。銀色に輝く魔力が、指先から母親の手に染みこむようにと、繰り返し念じ、集中した。
信じなければ。母が自分の荒唐無稽な夢をずっと信じてくれたように。私は、自分の力を、時渡り様を信じなければ。
そのうち、リルの胸に、懐かしいような、初めて会ったような不思議な衝動がこみ上げ、暖かな流れとなって、体中を巡った。ああ、私はこの感覚を知っている。ずっと前から知っていたのに、何故閉じこめてしまっていたのだろう。
 その流れはやがて大きな一つの流れになり、心臓から肩へ登ってきて、二の腕から手首へ。そして、手首から手の甲、指先へ。指先にその感覚が集まっては、爪の先から流れ出て行くのが感じられた。
「リル‥‥!?君は、一体何を‥‥」
 唖然としていた医師がリルに声をかけたとき。
「‥‥‥‥‥リル‥‥‥?」
 重たげに閉じられていた母親の瞼が開き、掠れた声がリルの耳に届いた。
「‥‥お母さん!?ああ、お母さん!!お母さん‥‥‥!!よかった‥‥!!」
 リルは泣きながら母親に縋り付いた。助かったのだ。母が、自分の魔法によって。大事なモノを守ることができた。
「‥‥なにがなんだかわからないが‥とにかく、今、始めて奇跡を信じたよ、私は」
 リルは、穏やかにトクン、トクンと脈打つ母の手を両手で包み、額に当てた。安堵と嬉しさの涙があとからあとから零れてきて、とまらない。
「奇跡はリルが起こした。なら、神の存在はどうやって証明するんだろう」
 役に立たない医者もできることをしなければな、と冗談を言いつつ、フェンスター医師は、体力を回復する薬を調合しはじめた。そして目を覚ました彼女は、嬉し泣きしている娘を見て、総てを悟った。
「リル‥‥そう‥時渡りに会えたのね‥よかったぁ‥‥」
 まるで我が事の様に嬉しそうに微笑んだ母を見つめながら、リルは母に聞かせるように、または独り言のように言った。
「‥お母さん、私、今思ったの。別にみんなが伝説を信じて無くてもいいんだって。ただ二人、私みたいな意地っ張りで諦めの悪い子と、お母さんみたいに、それを支える人が居ればいいんだって」
 ついでに、たくさんの本があればいうことなし、といつものように悪戯っぽい表情をしたリルを見上げて、母は目を細めた。その額に、ふいに、ぽたりと涙の粒が落ちてきた。
「ごめんね、お母さん‥」
 リルが、申し訳ない気持ちをいっぱいにして、安堵と謝罪がない交ぜになったような表情で静かに涙を落としていた。
「‥リル」
「なに‥わふっ!?」
 ごん、と鈍い音が響いたのは、枕の上に頭を乗せていた母が、「えいや」というかけ声とともにリルに頭突きを喰らわせたからである。
「な、なにするの‥‥」
「リル、ありがとう」
 ルオーヴァは、額をおさえるリルに向かって、ふわりと優しげに笑った。リルは慌てて涙を拭いながら言葉を紡ぐ。
「ち‥ちがうよ、お母さん!ありがとうを言いたいのは、私の方なの!お母さん、ありがとう。本当にありがとう!」
 ありがとうありがとうありがとうありがとう、と息継ぎもせずにありったけぶつけてくる娘の様子を見て、母は呆れたように言った。
「私は、私の夢を叶えただけよ。だから、そんなにたくさんありがとうは要らないの。私、今すっごく嬉しいんだから」
 その言葉に、リルが再び涙腺を決壊させたのは言うまでもない。








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